國場幸之助
後援会事務所
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コクバからのメッセージ

関係者から見た國場幸之助


『或る少年・…それから・…』

十五年前の残暑の厳しい九月。
その少年との出逢いは、ちょうどその頃であった。

当時、私は十六才。初々しい青葉の様に将来へやんごとなき事を夢想し、淡い桃色を思わす日々を過ごしていた。正に青春の中を生きていた。
その私のアルカディアから一人の少年、いや少年とはいい難い少年が現在をも歩き続けている。

 国場の坂を登り切った、津嘉山平野を望む校舎。その中の扇風機もない蒸しかえる教室の中で、私は汗で透けたシャツを扇ぎ、新しいクラスの級友等を見渡していた。
あの頃といえば、気の合う悪友等と、徒然成るまま他愛無い話をし、無邪気に休み時間を過ごし、登下校を共にしたもの。しかし、そういった教室の中に、何処かしらか聞こえる、御仁のような笑い声があった。そこには、一人の少年が友人達の中ただ一人佇んでおり、それは明らかに他の少年と違っていた。少年が少年であるためのあの浮き草の如き浮遊感は無く、しっかりと地に根を張り、確固たるモノを胸に納めたる潅木のごとき感。それはある種達観したような様相であった。無論、年の端も往かぬ少年に達観なぞあるまいが。
只、常に何かしらを想い、憂い、遠くを観る雑坊かの風姿 容貌、それは、明らかに周りの少年等の中に異彩を放っていた。
この忌憚の無い印象。それが少年『國場 幸之助』であった。

それから十年。私は大人へとなり、社会からそれなりの経験を課せられた。あの頃の純朴で透き通る美しさは何処かへ往った。幼き頃に観ていた『夢』『理想』。それは同タイトルを冠せられた小説であったことを知った。
そしてまた、あの少年も青年となっていた。が、しかし・・…その瞳にはあの少年が未だ顕在していた。何ら姿、形、変わることなく、あのままに・…。
私のかの少年に対するあの不思議な感じ、それは一瞬にて霧散した。
嗚呼……あの少年も同タイトル書物を常に読んでいた。しかし彼の手の中に在ったもの。それは実際書・……。
『夢』『理想』。それらを実社会の中の『現実』へと昇華させるべく、彼は少年期から青年期へと歩みを進めてきた。
『逸材』などという言葉を易々しく使うと、往々にして陳腐な感じさえ与えてしまう。しかし構わない。その言葉のみが的確に表す『國場 幸之助』というモノをから。
「己が道は、その 使命 責務 により拓け、そのことを知り、歩み往かねばならない」と或る先人がいう。神等と呼称される「超存在」からの託宣にその生を賜った者もいるという。彼は自身に内存する使命、責務を全うすべく生く。朴直と辻へ立ち、更なる思いを県民へ訴え歩む少年。それは・・…沖縄への憂い、日本への憂いから。それを亡きものとすること。
それが彼の『生への命題』






喜屋武尚(32歳・男性・相模原市在住)



100年後の世界と1年後の沖縄


又は、その逆でもいい。
1年後の世界と100年後の沖縄。

ローカリズムとグローバリズム(空間)
短期的ヴィジョンと長期的ヴィジョン(時間)

彼、國場幸之助はこの相反するコトガラを
自分の中で吸収した上で、行為できる希な政治家だと思います。
なぜなら、私利私欲を超えた"曇りなき眼"で、沖縄、日本、世界の過去
現在、未来を見据えているからです。

学生時代から彼を知っておりますが、國場幸之助の決意は、全くブレません。

どうか、皆様、國場幸之助にチャンスを与えてやってください。



『沖縄』でなく『琉球』を感じさせてくれた國場



福岡出身の私にとって、大学時代に知り合った國場は、
今でも私と『沖縄』を結びつける唯一の”接点”です。國場に出会う前の私の『沖縄』に対する印象といえば、「唯一の地上戦」、「駐留米軍」、「リゾート」、「公共事業」というような、どこか「無機質なもの」でした。しかも、政府の事業に頼る他力本願なイメージが強く、自主性が感じられない地域というものでした。
(今考えると、本当に勉強不足でした。)
こうした自分のイメージを、私は唯一の沖縄出身の友人ということで、直接國場にぶつけました。國場は腹を立てることもなく私の質問に対し、一つ一つ自分の考えを説明してくれました。
そして、時おり國場が口にした『琉球』という言葉、
この”りゅうきゅう”という響に、私は『有機的なもの』を感じました。
言い換えるなら、『沖縄』に対して「人」、「歴史」、「文化」、「生活」の”かおり”を初めて感じたのです。今考えると、私の『沖縄』に対するイメージは、國場を通じて徐々に変化したような気がします。

時が過ぎ、大学卒業後、國場は語学留学のためアメリカに渡りました。
その間も、電子メールを通じお互いに近況報告を続けました。
英語のメールしか取り扱えないということもあり、苦労しながら英語でやり取りしたのですが、その文面にも時おり”RYUKYU”という言葉を
目にすることがありました。帰国後、政治の道に進むという話を聞いていた私は、ことあるごとに「アメリカにいる間くらい、『沖縄』のことを忘れろ。」とメールで提案しましたが、國場の回答は次のようなものでした。
「確かに若いうちに見聞を広め、多くを吸収しようというのも留学の目的の一つではある。しかし、もっと大きな目的は、将来、米国や中国を始めとする諸外国に、『沖縄』の人間として自分の言葉で、自分の考えを説明し地域の発展のために力をつくすためだ。そのためには、英語が使えないと有権者に対する責任を果たせない。『沖縄』抜きに、ニューヨークの生活はありえない。」(確か、このような返事を受け取ったと記憶しています。)
こうした発言の根底に、私は國場の中の『琉球』を感じました。
東京にいる時も、ニューヨークにいる時も、國場の心には『琉球』がいつも存在していたのは容易に想像できます。また、そうした気持ちは『沖縄』を離れている時間が長くなれば長くなる程、國場の中で益々増大していったのではないでしょうか。
家業をつぐという責任を放棄し、地域社会のために政治家として身を捧げるという生き方を選択したのも、自分が先頭に立ち、『沖縄』の人間が主役となって『沖縄』の現状を変えたいという気持ちの現れだと、私は理解しています。
もし、それ程の強い覚悟がなかったなら、他の誰かに希望をたくし、
家業という限られた範囲の責任を果たすことを、自分の役割だと考えたに違いありません。

私はずっと感じてきました。國場の中の『琉球』を。
もしかすると、國場本人も自分の中の『琉球』の大きさに気付いていないかもしれません。
しかし、異なる地域で生まれ育った私には、はっきりと感じられます。

団塊ジュニアと呼ばれる我々の世代。
まだまだ若輩であるがゆえに、経験や実績を示せといわれると言葉につまります。國場に対しても、物足りない部分、頼りない部分をお感じの方もいらっしゃるでしょう。
ですが『沖縄』の皆さん。ご自身の中に『琉球』をお持ちの皆さん。20年後、30年後、皆さんの『琉球』を伝承する若い世代の代表として國場幸之助を見て頂けないでしょうか。
国会という舞台で、『琉球』を背負い、『沖縄』のため、そして『日本』のために毅然とした態度で行動し、物事を判断できる30代として、私は同級生である。 國場幸之助を自信を持って皆さんに推薦します。
最後になりますが、もし皆さんの周りの20代、30代の若者で、地域社会を託せる人物が具体的にいらっしゃるのなら、 その方に政治家として立ち上がるようにお薦めください。 國場と伴に地域のために是非汗を流して頂きたい。
しかし、もし具体的な人物が思い当たらないのなら、『琉球』を伝承する若い世代の一人、國場幸之助に力をおかし頂けないでしょう か。
宜しくお願いします。



植田浩治 東京都在住



沖縄、そして日本の将来を託せる政治家に!

コクバ君と私のつながりは早稲田大学雄弁会の先輩後輩という仲でもあり、また友人を通して知り合う事となりました。
初めて出会ったのが、お互いが議員になってからでしたが、話してみて彼の人柄や政治に対する信念、沖縄への思いを聞いて後輩ながら頼もしく思いました。
次期衆議院選挙に出馬するとのことですが、彼ならば必ずや沖縄、日本の将来を託せる政治家になると確信しております。次期衆議院議員選挙での当選を祈念しております。

井上剛 鹿児島市在住 鹿児島市議会議員 男性



 
 

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